「君が代」法制化をわらう


いまいげんじさんの「君が代」に対する歴史的検証と考え方が、和田喜太郎さんによってメーリング・リストに掲載され、転載自由ということであったため、「メディアとしての国歌」の資料として、ここに全文を掲載する。ただし、原文は20字縦書きで、和田喜太郎さんによって改行など任意に40字横書きで掲載されたが、データベース上全角カッコは半角に変更し、年号などの漢数字は横書きの場合、算用数字の方が読みやすいためこちらで任意に変更した。都立高教員228人は2004年1月30日に、東京都教育委員会が卒業式などの行事で日の丸に向かっての起立や君が代斉唱を強制するのは、思想・良心の自由を定めた憲法に違反するとして、東京地方裁判所に提訴した。

[全文]
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「君が代」法制化をわらう

いまいげんじ

●外国人が編曲
♪ きみがあ、ようは・・・・
「ようは」って何の用やろ? などと思いながら歌った「君が代」。平屋の木造校舎で、紀元節だの天長節の式の日には女の先生のオルガンで斉唱。
♪さざれ、石の、いわほとなありて・・・・  あ、これは「いわおこし」や、と思った。
♪ こけの、むうすうまああで・・・・
 臼をまわすことやろか? わたしは百姓の子供であった。歌詞と節回しが噛み合わない「きみがよ」を編曲したのは外国人だったのだ。「君が代」の歌詞の由来は、十世紀はじめ、紀貫之、紀友則らが撰進した「古今和歌集」の賀歌(がのうた)、題知らず読人しらずの、
 わが君は千代に八千代に細れ石の
 いわほとなりて苔のむすまで
という歌だ。古今集の少しあと、11世紀のはじめ頃の「和漢朗詠集」にも、
 わがきみは千代に八千代にさざれ石の
 巌となりて苔のむすまで
と収録されているが、「君が代は」と、はじまる歌は13世紀初頭に藤原定家や藤原家隆らが撰進した「新古今和歌集」のなかに四首ばかりあるが、いずれも千代に八千代と続かない普通の相手を祝う賀歌である。
 「わが君は千代に八千代に」が、何時、誰が「君が代は・・・・」と変えたのかは明らかではないが、宮内庁所蔵の、「和漢朗詠集」には、この歌が「きみがよは」となっているらしい。この歌は後世、あらゆる席で主賓の長寿を祝う賀歌としてうたわれ、昔、義経の愛人、静御前も鎌倉の頼朝の前に呼び出されて、
 しずやしず
 しずのおだまきくりかえし
 むかしをいまになすよしもがな
と、義経追慕の想いを歌い舞う前に、まずこの賀歌を頼朝に捧げたと伝えられている。
 江戸初期、堺の僧が創めた、隆達節をはじめ浄るり、常磐津、長唄、祭礼歌、琵琶歌などに取り入れて唄われ、筆者の畏友、故・宇野脩平氏(歴史学者)も、「昔、きみがよは遊君(アソビメ)が客のために唄ったり、乞食も門付に唄って歩いたんですよ」と語っていた

 現在の「君が代」は1869(明治2)年、薩摩藩の大隊長(後の元帥)大山巌が、薩摩琵琶歌「蓬莱山」の中から歌詞を取り出して、それを横浜駐留のイギリスの軍楽隊長フェントンに作曲を依頼したのが最初である。大山巌がこの歌を選んだのは、自分の名前の「いわほ」が読み込まれいたからだとの説もあるが、その真疑はわからない。時代はまさに倒幕に成功した薩摩や長州閥の天下となった明治初年の話である。
 さて、フェントン作曲の「君が代」を1870(明治3)年、薩摩、長州、土佐、三藩の調練式で、薩摩藩の軍楽隊が演奏。そして日本海軍の儀礼曲となった。ところが、フェントンの洋風の作曲は、当時の日本人にはあまり評価されず、1876(明治9)年の天長節に海軍は演奏を中止。1880(明治13)年、海軍省は宮内省にふさわしい軍楽曲を作ってほしいと要請。宮内省では、傭い教師ドイツ人エッケルトがいわゆる雅楽調をとり入れて新しく作曲、それが今の「君が代」である。
 しかし、これも歌詞の意味もよく分からない外国人の編曲なので、作曲家の中田喜直 氏は、「・・・・『さざれ石』が、さざれ、と石に割れてしまい、歌詞の長さとメロディー の長さがつり合わず、無理に引き伸ばしているのです・・・・」(1)と語っているし、
 永 六輔氏は、
 「『君が代』のメロディーは、中国から朝鮮を経由して入ってきた雅楽です。それに、『君が代』の五七五七七を、むりやりにはめ込んだ。だから『きいみいがあ』と全部母音で伸ばしている。あれは日本語じゃないですよ。・・・・母音で伸ばすのはパンソリ、 朝鮮半島の歌い方なんです」(2)と語っている。

●皇室の歌
 「君が代」は、はじめは軍楽曲として作られたもので、いつしかその歌詞の通りに「天皇制賛歌」と転化、もちろん国歌ではない。その証拠に1878(明治11)年、宮内省が国歌を作ろうとしたが成らず、エッケルトが「君が代」の編曲をした2年後の1882(明治15)年、文部省も音楽取調係に日本国歌の撰定を命じたが実現しなかった。(1)
 1889(明治22)年「大日本帝国憲法」が発布された。
「第一條 大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス  第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」 という明治欽定憲法である。※欽定・・・・君主の意志で制定  続いて翌年(明治23)「教育勅語」発布、更に翌年「小学校祝祭日大祭儀式規定」で 、文部省から祝祭日の式典には、「君が代」を歌ってよろしいという通牒が出された。
 しかし、また、「かしこきあたりの歌をむやみに歌ったり演奏してはならぬ」と宮内省から小学校が叱られたりしたという。
 1893(明治26)年発行の和綴じの文部省検定教科書「帝国読本」巻四には、「君が代」もじりの七五調の歌がある。
 「我が天皇の   御よはひ
  萬代ふべき   いしがめの
  あそぶ小川の  さざれ石
  いよよおひ立ち こけのむし
  千引きの岩の  岩が根を
  千代も八千代も かぎりなく
  いや栄えつつ  おわしませ
  天皇萬歳 萬々歳」
 こんな教科書で幼い頭に皇民教育を徹底的に叩き込まれ、式日には「教育勅語」「勅 語奉答歌」「君が代」斉唱など、いつしか「君が代」が国歌のように思い込まされてきた。
 1904(明治37)年9月3日付『大阪朝日新聞』の「天声人語」は書いている 。
 「皇室の歌あり!!而して国家の歌無き乎」ところが後年、「支那事変」の発端となった「盧溝橋事件」の1937(昭和12)年の尋常小学校修身書巻四では、
 第二十三 国歌
 君が代は
 千代に八千代にさざれ石の
 いわほとなりて
 こけのむすまで
 ・・・・君が代は日本の国歌です。我が国の祝日やその他おめでたひ日の儀式には、国民は 君が代を歌って天皇陛下の御代萬歳をお祝ひ申し上げます。
 君が代の歌は、我が天皇陛下のお治めになるこの御代は千年も萬年も、いや、いつまでもいつまでも続いてお栄えになるやうにといふ意味で、まことにおめでたい歌であります。・・・・
 国歌などと法的にも定めたことのない「君が代」を、恣意的に国歌と呼称した文部省。遂に軍部は対中国全面戦争の泥沼にのめり込み、太平洋戦争に突入! 1945(昭和20)年8月15日、敗戦降伏!
 思えば戦争、戦争また戦争で百千万無数の人々を殺した「明治欽定憲法」時代の命脈は56年で尽きて、この国は生まれ変わって国民主権の平和憲法の世となったが、以来50年!その間、一人の戦死者も出さず、一人の他国の人も殺すことなく、国民は平和な文化的生活を指向して歩んできた。しかるに、何を血迷ったか最近、突如として政府は「君が代・日の丸」の法制化を叫び出したのだ。
 それは、広島県教委が発した「君が代・日の丸」強制の職務命令で、自殺に追い込まれた高校校長の死を悼むよりも、むしろそれを好機とばかりに法制化を唱え出したもので、本末転倒、軍国の亡霊にとり憑かれたかのようだ。いまや国際化時代の21世紀を前にして19世紀末ドイツ人編曲天皇賛歌「君が代」をわざわざ法制化などとは、時代錯誤というよりナンセンス。小渕首相ら政府首脳の知能水準が疑わしい。かりに、国歌を募集して新時代にふさわしい、よい歌曲ができたとしても、歌う、歌わないは個人の自由であって、強制は思想、信条の自由を侵すものだ。

 なお、「日の丸」については、別に論じたい。終わりに、『婦人民主新聞』(99・3 ・15)「私のひとこと」の一部を抄録する。
 「・・・・戦後半世紀、・・・・あの奇妙な歌詞ひとつ変えられなかった私たちの不甲斐なさ !天皇制イデオロギーの底深さ!
 天皇の戦争責任不問が、国際的にも恥ずべき現象を温存していることに暗澹とする」(古川佳子)

●引用または参考文献
 『古今和歌集』『新古今和歌集』 小学館
 『和漢朗詠集』        岩波書店
(1) 『日の丸・君が代』・・・・   地歴社
(2) 『論座』(99・3) 朝日新聞社
99・3・23  いマイゲンジ


1523年に発行したNeweZeytug(新聞/Neue Zeitung)
1535年に発行したWarhafftige Newe Zeitung(新聞/Wahrhaftigen Neuen Zeitung)
1721年にライプツィッヒで発行されたNeue Zeitungenの1年分合本
1721年のNeue Zeitungenにあった新聞を読む貴族
1780に創刊され、スイスの共和制に貢献したZuercher Zeitungの1号表紙
1780に創刊され、スイスの共和制に貢献したZuercher Zeitungの2ページ
1780に創刊され、スイスの共和制に貢献したZuercher Zeitungの3ページ
1780に創刊され、スイスの共和制に貢献したZuercher Zeitungの4ページ
米国のインターネットを使う子供と、使わない子供の比較
子供達がよく使うソフト
米国における8〜12歳の子供とインターネット
1994年〜2000年までの米国小学校インターネット環境の変化
Coca-Colaパラソルの下でたばこを吹かす米国兵士
1470年にニュールンベルグで制作された「知識の塔」
1548年にベルリンで制作された「法則の塔」
1500年頃に制作された鞭を持つ先生と8人の生徒
1592年に制作されたW.L.Schreiber Potsdamの教育現場
ロバに例えられた17世紀の教育
米国同時多発テロで登場したa Special Patriotic(愛国心) Page
a Special Patriotic(愛国心) Pageに掲載された「涙を流す白頭鷲」
a Special Patriotic(愛国心) Pageに掲載された「WTCと天子」
a Special Patriotic(愛国心) Pageに掲載された「WTCとマリア」
a Special Patriotic(愛国心) Pageに掲載された「硫黄島占領とWTC」
a Special Patriotic(愛国心) Pageで流された音楽
米国の教育とメディアに関するIDCの調査報告(2001年9月現在)
1521年にSponierがユカタン半島を発見した記事がある1522年3月18日の新聞
Illustrirte Zeitung1845年11月8日号に掲載されたパリの小学校入り口
小学校のお祈りの時間
小学校の勉強風景-1
小学校の勉強風景-2
小学校の勉強風景-3
Illustrirte Zeitung1849年5月26日に掲載された腕白小僧のしつけ風景
Illustrirte Zeitung1852年8月7日号に掲載されたプラハの旧新学校外観
Illustrirte Zeitung1852年8月7日号に掲載されたプラハの旧新学校内部
Illustrirte Zeitung1854年1月14日号に掲載されたDarmstadt体育学校外観
Illustrirte Zeitung1854年1月14日号に掲載されたDarmstadt体育学校内部
Illustrirte Zeitung1854年1月21日号に掲載されたJ. Peter Hasenclever
Illustrirte Zeitung1854年1月21日号に掲載されたJ. Peter Hasencleverの試験風景
Illustrirte Zeitung1855年4月14日号に掲載された女子のギムナジウム体操解説図
Illustrirte Zeitung1855年7月21日号に掲載されたドレスデンの高等研究所
Illustrirte Zeitung1855年7月21日号に掲載されたドレスデンの高等研究所の教室
NCESがまとめた教師追跡調査結果2000-01
Illustrirte Zeitung1856年2月9日に掲載されたベルリンのDrNeumann機械体操研究室1
ベルリンのDrNeumann機械体操研究室2
Illustrirte Zeitung1856年3月15日に掲載された体操解説図
Illustrirte Zeitung1856年8月2日に掲載された体操解説図-1
Illustrirte Zeitung1856年8月2日に掲載された体操解説図-2
Illustrirte Zeitung1856年8月2日に掲載された体操解説図-3
Illustrirte Zeitung1856年8月2日に掲載された体操解説図-4
Illustrirte Zeitung1856年8月2日に掲載された体操解説図-5/6
Illustrirte Zeitung1856年8月2日に掲載された体操解説図-7
Illustrirte Zeitung1856年8月2日に掲載された体操解説図-8
Illustrirte Zeitung1856年8月2日に掲載された体操解説図-9
Illustrirte Zeitung1856年8月2日に掲載された体操解説図-10